松平信庸 (上山藩主)
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松平信庸 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 天保15年8月11日(1844年9月22日) |
死没 | 大正7年(1918年)3月5日 |
改名 | 菊太郎(幼名)→信庸 |
官位 | 従五位下・山城守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜 |
藩 | 出羽上山藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父:松平信宝、母:茂木キク |
兄弟 | 信庸、信安、由、江美子、典子ら |
妻 | 正室:小笠原長国娘・直子 |
子 |
信恭、信鑑、鉱、勝子、仲子 養子:信安 |
松平 信庸(まつだいら のぶつね)は、江戸時代後期の大名。出羽国上山藩9代藩主。藤井松平家嫡流15代。官位は従五位下・山城守。
略歴
[編集]松平信宝の長男として誕生した。幼名は菊太郎。母は側室の茂木キク。
文久元年12月16日(1862年)、従五位下・安房守に叙任する。後に山城守に改める。文久2年(1862年)4月6日、父・信宝の隠居により、家督を相続する。藩政としては、領内に灌漑用の堤(忠川堤)を築造した。慶応3年(1867年)9月、江戸市中取締を命じられる。同年12月、庄内藩と共に薩摩藩の江戸藩邸を攻撃する(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この際、家老の金子清邦が死亡した。慶応4年(1868年)6月、戊辰戦争に際し奥羽越列藩同盟に参加した。
明治元年(1868年)9月、明治政府に降伏し、同年10月、江戸の菩提寺・松光寺に入り謹慎した。同年12月7日、3000石を没収の上で隠居を命じられた。家督は異母弟の信安が相続した。明治3年(1870年)7月、知藩事信安の後見補佐を命じられた。大正7年(1918年)3月5日、75歳で死去した。
系譜
[編集]父母
- 松平信宝(父)
- 茂木キク(母) - 側室
正室
- 直子 - 小笠原長国の娘
子女
養子
- 松平信安 - 信宝の五男